カナロコ

掲載されている記事・写真は個人の閲覧に限ります。
各種媒体に利用する際は神奈川新聞社への申請が必要です。

神奈川新聞社が戦後、神奈川県内で撮影してきた写真の一部をご紹介します。

他にも多くの写真がありますので、各種メディアにご使用の際は、お問合せください。

横浜くらしの風景

家 庭

1956年
 ガスがひけたら…

横浜市金沢区で醸造業を営む家庭の台所。11人の大家族を畑で作物を育てにわとりを飼うなどして自給自足しているという。

6、70年前から使い続けているかまどで炊事をしているが、お嫁さんが働きやすいよう「ガスがひけたら早速現代風にします」

1956年
 新しい台所

揃いのキャビネットにステンレスの流し台、ガスコンロ、電気冷蔵庫がぴたりと収まる。

システムキッチンを先取りしたかのような台所。横浜市西区の住宅で

1957年
 にぎわう暖房器具売り場

この秋一番の冷え込みになったこの日、にわかににぎわう伊勢佐木町(横浜市中区)・野沢屋(その後の横浜松坂屋、カトレヤプラザ)の暖房器具売り場。

ガスも電化製品も一般的ではなかったこの頃、中で炭を燃やす火鉢が暖房器具の主役だった

1958年
 木炭の山

暖冬で予想外に需要が落ち込み、2月になっても炭俵が積みあげられたままの木炭屋さん(横浜市西区)。

木炭の高値などの影響もあり、こたつやストーブなどは前年比6割増の売り上げと電気器具の人気が高まっていた

1960年
 ごみの定日収集

現在のように、決まった日、決まった地点でのごみ収集が、西区・南区の一部で始まった。

家の前のごみ箱から不定期に収集するそれまでの方法より衛生的、と市民から好評で、市は対象を全市域に広げる計画を立てた

1961年
 田植え

機械化される前、田植え時期の農家はてんてこ舞い。新潟方面からの人手も借りるほどの忙しさだった。

工場用地に変わりつつあった現在の新横浜駅近く

1963年
 安全で経済的

「石油コンロ以上に安全で経済的」とプロパンガスがめざましい普及ぶりで、店頭にずらりと並ぶガスコンロ。

ただ、ガスの扱いに不慣れだったり器具の安全装置が未整備だったりして事故も続発、器具を正しく使うよう注意を呼び掛ける記事も掲載された

1967年
 銭湯から内風呂へ

浴室のない家庭も少なくなかった昭和40年代、横浜市内の銭湯は最盛期を迎えた。写真は中区羽衣町にあった銭湯「羽衣湯」。

1970年代から、集合住宅を中心にユニットバス(システムバス)などガス釜を備えた内風呂の普及が進んだ

1967年
 3C

冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビの電化製品“三種の神器”に代わり、マイカー(Car)、ルームクーラー(Cooler・冷房)、カラーテレビ(Color)の“3C”が家庭に。

このうちカラーテレビは1975年には9割の世帯に普及したが、マイカーは1979年、ルームクーラーは1985年になって世帯普及率が5割を超え、一般的になるまで時間がかかった

1971年
 ボウリングブーム

ボウリングブーム到来。上大岡駅(横浜市港南区)近くのボウリング場では、昼間ほとんど外出できず、団地間の交流も少ないママさんたちの親睦を深めようと「第一回団地対抗奥様ボウリング大会」が開催された。

汐見台、芹が谷、港南台など計6団地から、20代から50代までの20チーム80人のうち、約半数が未経験、約3割が子連れで参加。2時間半の熱戦でストレスを解消した

1973年
 都市の水害多発

集中豪雨で柏尾川があふれ冠水した戸塚駅周辺。陸の孤島となった団地では、ボートが唯一の足となった。鉄道もストップしたため水を避けて線路上を歩く人の姿も。

流域の急速な都市化に河川改修が追い付かず、都市の水害が多発していた

1974年
 住宅展示場オープン

首都圏最大の住宅展示場が横浜市西区にオープン。

1960年代から市内各所で宅地造成が盛んになり、港北区の分譲地売り出しには泊まり込みの列ができるほど、マイホームブームが過熱した

1974年
 塾ブーム

“受験戦争”の過熱を反映して、夜遅くまで学習塾に通う子どもたちが増加。

生徒の半数以上が塾通いをする中学校もあり、家庭や学校での教育のあり方も問われた

1974年
 新貨物線建設反対運動

1960年代、激化する通勤ラッシュを改善するため、国鉄(現在のJR)は、同じ線路を走っていた東海道線と横須賀線を、貨物線を転用して分離、列車を増発する計画を立て、戸塚-鶴見間に新しい貨物線を敷設しようとした。

住宅密集地を通るにもかかわらず旅客駅は設置されず、環境悪化の不利益だけを被るとして、沿線住民らは敷設に強く反対した。新貨物線は、高架区間に防音シェルターを設けるなどして1979(昭和54)年に開通、翌年には、東海道線と横須賀線の分離運転が実現した。2019(令和元)年、羽沢横浜国大前駅が開業し、40年越しで新貨物線沿線に旅客駅ができた

1974年
 ゼネスト

労働運動の高まりでストライキが頻発した1970年代。この年の春闘は物価上昇を受けた賃上げや、国鉄、郵便などのスト権確立などを求めて、大規模なゼネストに突入した。

鉄道、バスなどの交通機関は終日ストップ。写真の相鉄線二俣川駅付近の線路は、渋い顔で歩く大人をよそに、子どもたちの遊び場になった

買い物

1954年
 惣菜店の喧噪

横浜市鶴見区の商店街の一角。夕方になると惣菜店は買い物客の喧噪で包まれる。

ふところ具合も寂しい月末の買い物風景を捉えた本紙グラフ。この1コマには「あの顔もこの顔も…想いはひとつ…」とキャプションが付けられている

1956年
 バナナのたたき売り

藤棚商店街(西区)でバナナのたたき売り。

当時高級品の台湾バナナだが、船内で荷傷みが発生し「大投売」。段々と価格を下げながら、市価の4分の1程度の安値で売り、買い物客の人気を集めた

1963年
 スーパーマーケット続々開店

横浜市内にスーパーマーケットが相次いで開店。

大量仕入れによる安さと、お客が自由に商品を選べるセルフサービスを売りに、商店街の個人商店としのぎを削った

1965年
 食パン1斤何グラム?

“量をふやし質をよくした”という値上げの口実は本当か─ 横浜生活協同組合では、市内24店から購入した食パンの量や味を厳しく検査した。370グラム前後が多数だったが、中には100グラム以上軽いパンも。

1960年代後半、消費者物価指数は年平均5%を超えて上昇。とりわけ食料品の上昇率は高く生活を直撃した

1967年
 共同購入で家計守る

牛乳の値上げから家計を守ろうと、明神台団地(横浜市保土ケ谷区)では自治会が牛乳を共同購入し主婦らが各家庭に配達する運動を始めた。

1156世帯が住む同団地では、1日約2100本を2つの業者から購入。1本20円の市価に対し、配達の人件費を入れても16円という安価で提供した

1968年
 産地直売

保土ケ谷区(現在は旭区)の左近山団地で、地元の農協や県水産公社が野菜や魚など約20トンを持ち込んだ朝市。農林省(現在は農林水産省)などの主催で、年1回、全国6か所で開かれたものの一つ。

新鮮で安いと喜ばれ、「毎日開いてほしい」と言う人も

1969年
 値下げ音頭高らかに

物価上昇が家庭生活を直撃する中、汐見台(横浜市磯子区)にやってきたのは、産地直売をうたう移動スーパー。

流通の中間段階を省き、食パン1斤25円、キャベツ1個40円など市価の半額近くで、左近山や勝田など市内の大きな団地を巡回した

1969年
 人気のソフトクリーム

ソフトクリームが若者の間で人気に。写真は元町のユニオン前にあったスタンド

当時の紙面によれば、食べ歩きながらショッピングを楽しむのが「カッコイイことらしい」

1969年
 駄菓子屋さん

安価な玩具やお菓子が、子どもたちに人気の駄菓子屋さん

一方、お菓子に使われた色鮮やかな人工着色料や合成甘味料が、問題視されるようにもなっていた

1972年
 ファーストフード登場

伊勢佐木町(横浜市中区)の松屋(建物は現在のエクセル伊勢佐木)1階にマクドナルドがオープン。前年、日本に上陸したばかりで東京都外へは初進出だった。

メニューはハンバーガー80円、ポテト70円など。注文後すぐに食べられるスピードが昼時に好評だったほか、お土産として持ち帰る人も多かった

1973年
 オイルショック

第1次オイルショックをきっかけに「物不足になる」とのうわさが広がり、買い占めが発生。トイレットペーパーをはじめ食料品や日用品が次々と店頭から消え、パニックに拍車がかかった。

政府やメーカーは「物不足ではない」とパニックの収拾に努めたが、よくないとわかっていても「品物をかかえた人を見たり、店に品物がないのを目にすると、じっとしていられない」という消費者の声も。

写真は横浜市中区の百貨店。1人2個までとされた洗濯用洗剤を求め長蛇の列ができた

1973年
 ドル円変動相場に

1971(昭和46)年、金とドルとの交換を停止したドルショック(ニクソンショック)以降、ドルの切り下げが続き、73年2月、ドル円は変動相場制に。

71年に360円だったドルの価値は約270円まで急落、ドル建てで給与を受け取る米軍関係者らの生活を直撃した。写真は元町のスーパー

1974年
 冷凍食品登場

スーパーに並ぶようになった冷凍食品。グラタンや肉団子、コロッケ、ピザの他、茶わん蒸しも見える。

低温輸送の発達や冷凍冷蔵庫、電子レンジの普及が背景にあるが、当時の紙面には「便利には違いないが、なんとなく味気ない」という一言も

1974年
 狂乱物価

日本列島改造政策や第1次オイルショックなどでインフレが加速。消費者物価指数は対前年比で23.2%上昇し「狂乱物価」とも呼ばれた。

市民生活を守ろうと、横浜市はメーカー、卸売業者、小売店に値下げを要請、100店以上のスーパーが協力した。写真は横浜駅西口の東光ストア(現在の東急ストア)

遊 び

1954年
 ゲンゴロウレース

ゲンゴロウレースの夜店。“ゲンゴロウサン”の呼び名で戦前からあったという。

ゲンゴロウをおけの中央に放し、泳ぎ着いた仕切りの番号と同じ数の小さなドーナツがもらえた

1954年
 野毛山遊園地の電車

野毛山遊園地の電車。遊園地は1951年に開園、1964年に動物園を残して閉園した。

開園当初は、先頭の機関車にサルが乗って鐘を鳴らし「お猿の電車」と呼ばれた

1957年
 ホッピング

ばねのついた棒に乗って跳びはねるホッピングが小学生の間で全国的に流行した。写真は中区の本町小。

競い合って数百回跳ぶことは珍しくなく、疲労骨折する事例もあった

1958年
 フラフープ

子どもから大人まで大ブームになったフラフープ。写真は、南区の黄金町駅近くの路地。

品不足でデパートやおもちゃ屋では奪い合うような混乱も発生、路上で遊んでいた子どもが交通事故に遭うなど社会問題にもなった

1958年
 めんこ遊び

新港ふ頭付近のはしけでめんこ遊び。地面に置かれためんこに手持ちのめんこを叩きつけ、裏返したらそのめんこを取れる、など様々な遊び方がある。

水上学園で共同生活を送る子どもたちも、夏休みや週末には、わが家のはしけに帰った

1961年
 ローラースケート

ローラースケートが子どもたちの間で流行。横浜駅西口にはローラースケート場もあった。

写真は中区の福富町付近。道路上を連なって遊ぶ子どもたちに、交通事故を心配する声も

1966年
 紙芝居屋さん

戦後、子どもたちの人気を集めた紙芝居屋さん。公園などで駄菓子を売り、買った子どもに紙芝居を読み聞かせた。

写真は、テレビに押され数が減っていた頃。残った紙芝居屋さんは、県条例による試験をパスしコンクールなどで腕を磨いたベテラン揃いで、「町の教育者」を自負。テレビに飽きた子どもが再び集まり始めた