カナロコ

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神奈川新聞社が戦後、神奈川県内で撮影してきた写真の一部をご紹介します。

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鶴見ダイアリー

1972年
 沖縄復帰パレード

沖縄の復帰を祝い、鶴見沖縄県人会が、鶴見駅から神奈川県庁・横浜市庁へとパレードした。写真は国道1号を南進する約30台の車列。

復帰から50年の2022年、鶴見に住む沖縄出身者が主人公のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」が放映される

1951年
 鶴見駅東口

区画整理前の鶴見駅東口。

手前の踏切が京急線で、奥に国鉄(現在のJR)の駅舎が見える。踏み切りに差し掛かるのは横浜市営バス

1959年
 鶴見駅東口

整備が進む国鉄(現在のJR)の鶴見駅東口。

街路樹やグリーンベルトに今も面影が残る

1952年
 本町通り商店街

1945年4月15日の空襲により焼け野原になった一帯でいち早く復興した。

奥が潮見橋方面、総持寺の丘まで見通せた。建物が高くなった現在でも、真っすぐ続くアーケードは変わらない

1952年
 花月園

花月園のボート池。

戦前は遊園地、戦後は戦災復興を支えた競輪でにぎわった

1952年
 鶴見線

鶴見川を渡り国道駅に入ってくる鶴見線。

対岸の工場地帯も今ではマンションが立ち並ぶ

1954年
 鶴見工パレード

横浜市立鶴見工業高校が高校野球県大会で優勝、鶴見区内をパレードした

写真は鶴見銀座商店街。優勝旗を掲げたエース・黒田勉選手は、その後近鉄などで活躍した

1954年
 造船所

鶴見区内の造船所。翌年元日の紙面を飾った。

輸出船の受注が急伸し「造船ブーム」に沸いていた

1955年
 潮見橋

架け替わった潮見橋で盛大な渡り初め。

両岸の鶴見銀座、本町通り商店街(奥)では祝賀セールも

1958年
 鶴見駅のラッシュ

鶴見線鶴見駅のラッシュ。

鶴見区の人口は1955年に20万人を突破、電車の窓が割れるほどの混雑だった

1959年
 戦後初の臨海部埋め立て

大黒町地先埋め立てが完工。

横浜市内戦後初の臨海工業地帯造成で、今も発電所などが立つ

1965年
 鶴見駅東口

鶴見駅東口に駅ビル完成。駅ビルは川崎、横浜に次いで神奈川県内3番目で、大丸などが入った

1985年新装して「カミン」となり、2008年建て替わって「シァル」に

1965年
 工事進む首都高速

首都高速横羽線(当時は羽横線とも)の工事が進む産業道路。現在の汐入出入口付近。急速なモータリゼーションの幕が開きつつあった。

同線は浅田-東神奈川間で1968年7月19日に開通、羽田までの全線は11月28日に開通した。

1970年
 さよならSL 鶴見を走る

国鉄高島線(貨物支線)の電化に伴い、同線で活躍したSL(蒸気機関車)・D51形791号機がさよなら運転。

東京-横浜港(よこはまみなと・現在の赤レンガ倉庫近くにあった駅)間を走り、鶴見駅を通過した。全国で引退が相次いだSLとの別れを惜しむ「SLブーム」が巻き起こっていた頃、左奥を走る京浜東北線の車窓にも、見送る人たちが鈴なり。

1966年
 廃止間近の横浜市電生麦線

廃止間近の生麦停留場。国道15号を走る横浜市電生麦線の終点。

市電は、モータリゼーションによる道路混雑や累積した赤字などに悩まされ、同線の廃止を皮切りに、72年、全廃された。右手前にあった車庫は、市バスの営業所(現在の鶴見営業所)になった

1974年
 生麦魚河岸

鶴見線国道駅付近から続く通りには、新鮮な魚介類を求める人たちが朝早くから集まってくる

1959年
 新鶴見操車場

1929年の開設時には「東洋一」とうたわれた鉄道貨物の一大拠点。背景に見える江ケ崎跨線橋は2013年に架け替えられた。

勾配(ハンプ)により勢いの付いた貨車につかまり、足でブレーキを掛けながら目的の列車に連結させる危険な作業を昼夜続け、撮影当時、1日5千両以上の貨車を行先別に仕分けた。1980年に貨物線が旅客線化され新川崎駅が開業、1984年に操車場は廃止され信号場に。跡地は研究拠点や住宅、商業施設などに再開発されている

1952年
 豊岡商店街

鶴見駅西口の豊岡商店街。戦災を免れ、鶴見・山の手の住宅街に住む人たちでにぎわっている

1965年
 南極観測船ふじ進水

鶴見区内の造船所で南極観測船ふじの進水式。

1万2千人が見守る中、皇太子妃美智子さまが支え綱を切られた

1954年
 夕方の商店街

尻手駅近くの商店街。夕方、かっぽう着姿の主婦らが、新鮮な食材を求め店先に列をなす

1974年
 花月園競輪場

鶴見市街地を眼下に望む競輪場。

戦災復興を急ぐ神奈川県や横浜市などの財源として1950年に開設、2010年閉鎖

1959年
 佃野商店街

街灯が完成した鶴見川近くの佃野商店街。現在は「レアールつくの商店街」と呼ばれアーケードが架かる。

当時は、東北地方などから来た若い店員が多く店員同士の親睦会もあった

1973年
 「この濃度はきれいです」

地元の要望を受け鶴見駅東口に置かれた公害表示盤。奥に走る京急線は、1982年に高架化された。

一酸化炭素などの測定値とともに「コノ、ノウドハ、キレイデス」との説明も

1965年
 蛇も蚊も祭り

生麦の伝統行事、蛇も蚊も祭り(じゃもかもまつり)。

子どもたち約200人がカヤの大蛇を担ぎ、町内を練り歩いた後、大黒町の海に流した。1970年代には、海には流さず神社で焼かれるようになった

1988年
 横浜ベイブリッジ

大黒ふ頭(手前)、本牧ふ頭間で建設が進む横浜ベイブリッジ。

両岸から橋桁を伸ばし、翌年9月に開通した

1992年
 鶴見線とガスタンク

浅野駅近くを走る鶴見線と東京ガスのガスタンク(左奥)。

どちらも戦前製だったが、平成前半に姿を消した

1983年
 再開発を待つ鶴見駅西口

横浜市の総合計画「よこはま21世紀プラン」で鶴見駅周辺が「副都心」の1つとなり、再開発ビルや駅前広場の建設が進む。

中央の空き地などに1985年複合施設「フーガ」がオープン、手前はバスターミナルになった

1991年
 製油所跡でコンサート

大黒町の旧アジア石油横浜製油所跡にあったCOSMO OIL YOKOHAMA BAYで、THE ALFEEがコンサート。対岸にはオープンしたばかりのパシフィコ横浜が見える。

同所は1959年に操業開始、1987年に設備廃棄された後、レジャーやスポーツ施設への再開発も検討された。現在は物流拠点「MFLP横浜大黒」などが立つ

1992年
 建設進む「鶴見つばさ橋」

首都高速湾岸線の鶴見航路橋の建設工事。一面づり斜張橋としては、当時世界一の長さを誇った。

「鶴見つばさ橋」と命名され、1994年に開通した