カナロコ

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横浜の街とスポーツ

1972年
 横浜公園球場

関東大震災の復興事業として、1929年に開場。野球やラグビー、式典などに使われたほか、1934年には、来日したベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら全米選抜と、横浜出身の苅田久徳ら日本選抜との歴史的一戦も。戦後、連合国軍に接収され「ゲーリック球場」となった後、1952年に返還され「平和球場」の名が付けられた。横浜スタジアム建設のため、1977年解体。

この年3月末に横浜市電が廃止され、写真下、港橋(左下)や花園橋(右下)が架かるかつての派大岡川では、首都高速横羽線の建設が進む。急速なモータリゼーションにより、市心部の姿も変わりつつあった頃

1964年
 三ツ沢球技場

1955年の神奈川国体に合わせ、ラグビー場として開設。球技場前で炬火を掲げる「平沼さんの像」は1962年に建立された。スタンドなど大幅な改修を経て、1964年東京五輪ではサッカー競技が行われ、聖火リレーのコースにもなった。

その後は主にサッカーに利用され、1993年のJリーグ開幕時には、横浜マリノス、横浜フリューゲルスのホームスタジアムになった。現在は、横浜FC、Y.S.C.C.のホーム

1963年
 横浜文化体育館

開港百年祭の記念事業の一つとして、1962年に完成。周囲に高い建物は少なく、背景には山手の丘も。1964年東京五輪では、バスケットボール予選とバレーボールの競技会場となり、金メダルを獲得した女子バレーボール日本代表「東洋の魔女」も活躍した。

「文体」の通称で親しまれ、横浜市民のスポーツや行事をはじめ、プロレス、コンサート、大相撲、サーカスなど幅広く利用された。2020年に閉館、跡地にはメインアリーナが2024年開館予定

1950年代
 フライヤージム(FRYAR GYM)

伊勢佐木町近く、現在の長者町五丁目交差点北西角に占領軍が建設した体育館。

スポーツ、コンサート、見本市など様々なイベントに利用され、日本人による催しも多かった。1953年に横浜公園内に移転した

1972年
 横浜公園体育館

1953年、児童公園のあった敷地に中区長者町のフライヤージムが移転。新装直後には、ルイ・アームストロングの横浜公演が行われた。

1958年に接収解除され、横浜市の体育館に。1960年、島倉千代子や林家三平らが出演予定だったラジオ関東の公開録音に観客が殺到、死傷者を出す事故もあった。老朽化のため、1972年に解体された

昭和20年代
 野毛山プール

1949年、東京国体の水泳競技会場として、貿易博覧会のプールにスタンドを追加する形で完成。2003年まで利用された。

眼下の横浜市街は高い建物もまだわずか、接収地の兵舎が目立つ