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神奈川新聞社が戦後、神奈川県内で撮影してきた写真の一部をご紹介します。
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1970's
横浜駅西口
1973年 全国有数の商業地「横浜西口」
68年におかだや(現在のモアーズ・写真右端)、73年に三越(2005年閉店し現在のテナントはヨドバシカメラ・写真中央)と相次いで大規模な商業施設がオープンした西口
公示地価では横浜市内、神奈川県内の商業地域で圧倒的な首位。東京・日本橋、丸の内にも肩を並べる全国トップクラスの商業地になった
1971年 ハマボール
ボウリングが大流行していた1970年、北幸の横浜煉炭跡に90レーンの巨大ボウリング場「ハマボール」がオープン
これに対し東口・スカイビルのスカイボウルは72レーンに増強、ボウリング場でも東西戦争が勃発した
1974年 おかだやの屋上遊園地
68年にオープンした横浜おかだや(現在の横浜モアーズ)の屋上にあった小さな遊園地
相鉄文化会館や高島屋(いずれも現在の高島屋横浜店)などの屋上にも身近な遊園地があった
1978年 ボウリング課外授業
ハマボールでは近隣の市立中学校の課外授業も行なわれた
56レーン貸し切りでプロの指導も受け「集中力を養うにもいい」と校長
1978年 ハマ・スケートボードパーク
ハマボール屋上に県内初のスケートボード練習場がオープン
難易度別に4つのコースが設けられ、オープン初日はトッププロの秋山弘宣、勝利兄弟らが妙技を披露した
1976年 横浜市営地下鉄開業
かつて横浜市内を縦横に走った横浜市電に代わり、72年に伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間で開業した横浜市営地下鉄(現在のブルーライン)が延伸
横浜駅~上永谷駅間が開通し、市南部の住宅地と関内、桜木町、横浜駅といった市中心部の官庁・ビジネス街、商業地とが一本で結ばれた
1977年 西口改札
東西自由通路が開通する以前、西口改札は駅ビル1階の正面にあった
写真奥の階段を降りたところがコンコース。現在はその左右に改札があり、改札を通らずに東口へと抜けられる
横浜駅東口
1971年 東口開発始まる
68年に東口初の大型商業施設、初代スカイビル(写真左)が完成。円形の回転する展望レストラン・ラウンジが特徴だった
間もなく写真左の国道1号上に首都高速の建設が始まり、見通しのよい駅前風景もこの頃で見納め
1978年 横浜駅前に首都高速
首都高速横羽線が横浜駅前を通り横浜公園まで延伸。同時に第3京浜へと接続する三ツ沢線(写真左)も全線開通した
モータリゼーションが進み、横浜駅(写真左隅に京急線)は高速道路の高架に囲まれた
駅頭の人びと
1970年 ミルクスタンド
西口の改札口近くにあったミルクスタンド。瓶入りの牛乳やパンなどを買い、その場で飲み干して空き瓶を返す。
老若男女問わず瓶牛乳を立ち飲みする姿が見られた
1972年 赤帽さん
列車と駅や乗り換え先の列車との間で、乗客の手荷物を運ぶ赤帽さん
生活物資がどこでも簡単に手に入るようになり身軽な旅行者が増えたことや、東海道新幹線の開業で在来線の長距離列車が減ったことなどから、横浜駅では2人だけになった
1973年 改札に殺到
国鉄(現在のJR)の労働運動が高まり、ストや“順法闘争”の影響で運休、遅延が頻発。3月13日には、通勤・通学の足を止められた乗客らが暴徒化した「上尾事件」が発生していた。
4月24日夜、帰宅時間帯の大幅な遅延をきっかけに、乗客による暴動が首都圏の駅で同時発生(首都圏国電暴動)。架線事故も重なった翌朝は、国鉄各線がストップする中、並行する私鉄に乗客が殺到し横浜駅は大混乱になった
1974年 帰省切符に長蛇の列
お盆の帰省切符を求める人たちが、東口に長蛇の列。家族総出で代わる代わる並ぶ人や徹夜組も現れた。
第1次オイルショックを契機とした“狂乱物価”が家計を圧迫、ガソリン価格がほぼ倍になったことも行列に拍車を掛けた
1975年 駅で小包
かつて国鉄には駅から駅へ個人の荷物を届ける“チッキ”とも呼ばれた小荷物輸送があった。写真は東口の窓口。係員が座る机には主要な駅名のスタンプが並ぶ。
1970年代から個人宅まで届ける様々な宅配便サービスが始まり、80年代には縮小、廃止された。近年では、宅配ボックスという“駅で受け取る”小包の形が復活しつつある
1975年 立ち売りのお茶
東海道線などのホームなどでは、駅弁やお茶を売り歩く姿が見られた。乗客は座ったまま窓を開けて買い求め、汽車旅らしい一場面でもあった。
写真はお茶の立ち売り。ドアも閉まり発車直前だが、お釣りのやりとりが続いている
1977年 切符にはさみ
自動改札機が導入されるまで、主な駅の改札口には係員が立ち、乗客の差し出す切符に、駅ごとに切り口の違うはさみを入れた。
“チャンチャン”とはさみを入れるリズミカルな金属音が響いた。写真は西口の改札口
1977年 赤い羽根募金
西口の高島屋前で始まった赤い羽根の共同募金。
初日は飛鳥田一雄横浜市長も街頭に立ち、募金を呼び掛けた
1978年 ゲームコーナー
西口のゲームコーナー。
コンピューターゲームが台頭し、子どもたちの人気を集めたが、お金や時間の浪費、射幸性の高さなどが社会問題にもなった
1978年 横浜大洋サイン会
横浜スタジアムの完成とともに川崎から横浜に本拠地を移したプロ野球・横浜大洋ホエールズが、市内各所でサイン会を開催。
横浜駅西口の三越では、中塚政幸(左)、福嶋久晃両選手が、球団の親会社・大洋漁業(現在のマルハニチロ)の缶詰が並ぶ食料品売り場で、色紙にペンを走らせた
1979年 第1回ヨコハマカーニバル
「みなと祭り」に並ぶイベントを目指し始まったヨコハマカーニバル。駅ビル・ルミネと地下街・ポルタの開業を翌年に控える東口に対抗し、西口一帯を盛り上げようと企画された。
写真は商業施設のフロートなどが繰り出した夕方のパレード。2009年まで開催された
1980's
1980年 東口にルミネ・ポルタ
半世紀にわたり横浜の玄関口となった東口駅舎が80年に駅ビル・ルミネに生まれ変わった
スカイビルとの間、国道1号の下に地下街ポルタも同時にオープンし東口の商業開発が本格化
写真は82年撮影。左手前は55年から立つ東口の老舗・崎陽軒
1982年 西口
左の横浜ステーションビルは、この年改装、シァルに名前を変えた。2011年に閉店し現在は新しいビルが建設中
右の相鉄ビルは1998年に横浜ベイシェラトンホテル&タワーズに建て替わった
バスターミナルの形と正面の高島屋、ジョイナスは今も変わらない
1980年 西口5番街
飲食店が立ち並ぶ西口5番街は今も変わらぬにぎわい
1981年 東西自由通路開通
当時日本一の幅を誇った東西自由通路が全面開通
改札を通らず行き来できるようになり東西間の商戦が本格化した
1987年 国鉄最後の日
1987年3月31日、JR各社へと分割民営化される日本国有鉄道(国鉄)が、官営鉄道開通から115年の歴史に終止符を打った
写真は「さようならJNR日本国有鉄道」のヘッドマークを付けた東海道線
1989年 昭和最後の日
1月7日朝、昭和天皇が崩御された。通勤ラッシュの中、駅の構内放送で知った人々からはざわめきが起こった
店頭からはレジャーやセールをうたう華美な広告が外され半旗が掲げられるなど、哀悼の意を表す自粛ムードが広がった
1989年 横浜博覧会・YES'89
かつては三菱重工横浜造船所、現在はみなとみらい21(MM21)地区になった埋め立て地で、3月25日から10月1日まで、宇宙と子供たちをテーマに開催された横浜博覧会・YES'89
会期中、写真左手前の横浜そごうからゴンドラ(ロープウェイ)が運行され、横浜駅と博覧会場とを直結した
1989年 高速バスブーム
横浜駅を発着する夜行高速バスが次々に開業。神奈中が2月に横浜駅東口から奈良行きの路線を開設、12月には広島行き、和歌山行きが加わった。京急も3月に東口から名古屋行き「ラメール」、5月に神戸行き「アンカー」、相鉄は3月に西口から大阪行き「ブルーライト」の運行を始めた。
写真は3月23日に行なわれた「ブルーライト」の発車式。28人乗りのゆったりとした座席に、自動車電話、テレビ、ステレオ、トイレなど豪華な装備が用意された
1980年 公衆電話
携帯電話が一般に普及する2000年代より前、ずらりと並ぶ公衆電話も駅らしい風景のひとコマだった。
自宅や帰省先の最寄り駅で「今から帰る」と家族にかける電話は“カエルコール”とも呼ばれた
1980年 東口バスターミナル
駅ビル(ルミネ)建設に伴い、駅前から国道1号を隔てた向かい側の「出島」地区、現在そごうが立つ辺りに移った。西口バスターミナルは75年に屋根が付いたのに対し、東口は吹きさらしのまま。
82年、今度は横浜新都市ビル(そごうが入るビル)建設により、左奥に見えるスカイビルの反対側(南側)へ移転。85年に現在の場所に落ち着くまで、東口バスターミナルは、再開発の影響で、10年足らずの間に3度も移転した
1980年 東西自由通路工事中
全面開通に向け工事中の東西自由通路。手前が西口、奥が東口。
現在まで半世紀以上にわたり断続する工事も、横浜駅にはなじみ深い風景の一つ
1980年 ブルトレブーム
SLブームに続いて、主に子どもたちの間で、国鉄の寝台列車“ブルートレイン”(ブルトレ)がブームに。列車愛称にちなんだ絵入りのマークを掲げて走るようになったのも、人気を後押しした。
よい写真をとホーム上を奔走する子どもたちに、駅の安全対策を求める投書も本紙に掲載された
1981年 東西自由通路全面開通
東西自由通路の全面開通を記念したイベント。
アイドルや歌手も出演し、東口ポルタ入口には多数の人が詰め掛けた
1985年 東西商戦
この年、東口待望の百貨店・横浜そごうが開店。バブル期に向かう好景気の追い風もあり、高島屋や三越を擁する西口との間で商戦が激化した。
写真は両者の広告がしのぎを削った東西自由通路
1990's
1991年 空の玄関へ直通
3月19日、横浜-成田空港間を最短84分で結ぶ特急「成田エクスプレス」の運行がスタート。空の玄関はぐっと近づいた
当時、空港行きのバスが発着する横浜シティ・エア・ターミナル(96年スカイビルに移転)は現在のポートサイド地区にあり、横浜駅から成田空港へは2時間近くかかっていた
1992年 はさみの音消える
3月7日、JRと京急に自動改札機が導入され、連絡改札口を除き、横浜駅に乗り入れる5社局全てが自動改札になった
他の駅で導入が進んでいることもあって大きな混乱はなく、出入りはスムーズになったが、大きな駅にはつきものだった切符を切るはさみの音は聞こえなくなった
1996年 高層化進む
東口に新しい横浜スカイビルが完成、西口では1998年に横浜ベイシェラトンホテル&タワーズがオープン。高さ100メートル以上のビルが東西の駅前に立ち、横浜ランドマークタワー擁するみなとみらい21地区とともに、超高層化が進んだ
手前ではみなとみらい線が工事中で、21世紀の横浜駅へ第一歩を踏み出した
1998年 ベイスターズ優勝
甲子園で阪神を下し、横浜ベイスターズが38年ぶりの優勝を飾った
東口地下街入口に設けられた守護神・佐々木主浩投手を祭る「ハマの大魔神社」前は、集まったファンらの歓喜に包まれた
2000's
2004年 東急東横線の横浜-桜木町間廃止
開通したみなとみらい線と直通運転を行うため、東急東横線のホームは地下へ
写真の横浜駅地上ホームは、高島町駅、桜木町駅とともに廃止された
2011年 東日本大震災
3月11日午後2時46分ごろ、三陸沖でM8.8の地震が発生。県内でも横浜市中区などで震度5強を記録した
鉄道各線が運転を見合わせ、横浜駅では帰宅困難になった人たちが通路にあふれた
2011年 西口の〝顔〟交代
横浜ステーシヨンビルとして1962年にオープンし、約半世紀にわたり西口の〝顔〟だった駅ビル「シァル」が閉店。
同時期に開館、閉館した隣接の横浜エクセルホテル東急(旧・横浜東急ホテル)とともに建て替えられる
2020年 58年ぶり駅ビル新装
JR横浜タワーが6月に開業。西口の駅ビルが一新されるのは、横浜ステーシヨンビルが開業した1962年以来、58年ぶり
地上26階、地下3階の建物には、商業施設の「CIAL横浜」や「NEWoMan(ニュウマン)横浜」、複合映画館、オフィスが入る