カナロコ

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神奈川新聞社が戦後、神奈川県内で撮影してきた写真の一部をご紹介します。

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横浜 懐かしのたてもの

1955年
 横浜松竹劇場

1936年、洋画封切館「オデヲン座」(1911年開館)として新装完成。1945年、連合国軍に接収され「オクタゴンシアター」に。1955年の接収解除後は、邦画専門の横浜松竹劇場となった。

映画の斜陽化とともに1973年に閉館し、跡地には映画館などが入る複合ビル・オデヲンが建った。現在はドン・キホーテ伊勢佐木町店などが主なテナントとなっている

現在の横浜市中区伊勢佐木町3丁目付近

1971年
 横浜新興倶楽部

1921年、神奈川県匡済会により、主に肉体労働者のための社会福祉施設「横浜社会館」として開館。低料金で宿泊や入浴、食事を提供し、「労働殿堂」などとも呼ばれた。

関東大震災と戦災を乗り越えたが、1977年に解体された。関東大震災後、国道をはさんだ正面に横浜駅が移転してきたため、同駅に降り立つとまず目に入るビルだった。写真は事務所として利用されていた頃。跡地には現在、そごう横浜店が入る横浜新都市ビルやスカイビルが立つ

現在の横浜市西区高島2丁目付近

1956年
 旧松屋(吉田橋際)

1930年、亀の橋際(横浜市中区)にあった老舗・鶴屋呉服店が移転、れんが色の7階建てデパート・松屋として開店した。

写真は、戦後、連合国軍の病院などになった後、1955年に接収解除され空きビルだった頃。1957年、クリーム色に改装し三和銀行などが入った。1972年、派大岡川跡を走る首都高速横羽線の建設工事に伴い解体された。跡地は現在、道路になっている

現在の横浜市中区末広町1丁目付近

1954年
 中区役所

1929年、横浜市中央授産所(授産場とも)として新築され、横浜市内生産品を売る出品場や催事場、ミシンなど職業訓練の会場に利用された。間もなく出品場が「興産館」と名付けられ、1942年に中区役所が入った。

写真は、市信用保証協会や市中小企業団体中央会などが同居していた頃。1961年、中区役所は旧横浜銀行本店の建物(現在の関内ホールの敷地)に移転。かねて要望のあった地元への払い下げが計画され、スーパーや映画館、ホテルなどに改装する案が出る一方、桜木町駅前再開発の観点から取り壊して広場にする案なども出てまとまらないまま、1964年、市民から強い要望のあった市民ギャラリーへと暫定的に改装された。

1974年、直下を通る市営地下鉄の工事のため取り壊され、市民ギャラリーは関内駅前の市教育文化センターに移った。跡地は現在、「桜木町駅前駐車駐輪場」に

現在の横浜市中区桜木町1丁目付近

1954年
 湘南百貨店

1930年、デパート・相模屋として開店。8階展望台からの眺めは「横浜百景」にも選ばれたが、1935年に閉店。展示会場などに利用されたが、1936年にオデヲン百貨店となった。戦後は横浜貯金支局分室として使われた後、1951年に湘南百貨店が開店、接収により他の百貨店が売り場縮小を迫られる中で、売り上げを伸ばした。

写真は、経営不振で閉店やむなしとなった頃。1963年に、呉服店・ほていやのディスカウント業態店が入り、1971年にほていやがユニーとなった後も「4丁目店」として営業した。1977年、建物の老朽化と改正消防法に対応できないことから閉店、解体された。れんが色の外観から「ザキの赤ビル」とも呼ばれた。跡地は現在、「ホテルリブマックスBUDGET横浜関内」などが入るビルに

現在の横浜市中区伊勢佐木町4丁目付近

1960年
 南公会堂

1927年、第一隣保館として完成。関東大震災後の困窮者保護を目的とした社会福祉施設で、大阪市からの寄付によって建てられた。その後、南太田厚生館と名前を変え、戦中には南太田市民館として「皇民錬成道場」へと位置づけも変化、1943年には中区から分区した南区役所が入った。

1958年、南区役所が花之木町の新庁舎に移転し、1960年までに映画や音楽など区民の文化活動に利用できる南公会堂へ改装された。1974年に、南公会堂を含む南区総合庁舎が花之木町に完成し、1977年までに解体。跡地には1978年、横浜市婦人会館(現在のフォーラム南太田)が建った

現在の横浜市南区南太田1丁目付近

1967年
 横浜アメリカ文化センター

1929年、イギリス系の外国人の社交場、横浜ユナイテッド・クラブとして完成。戦中、日本海軍に接収された後、戦後は占領軍に接収され、軍属や軍で働く人たちのためのコロニアル・シビリアン・クラブとなった。1952年に返還され、一時期は横浜ユナイテッド・クラブの拠点に戻ったが、1957年、図書館や文化活動拠点の横浜アメリカ文化センターが、近隣の南里ビルから移転した。

1967年に同センターが閉鎖された後は空ビルとなり、映画のロケにも使われたが、1972年頃、県民ホール建設のため解体された

現在の横浜市中区山下町3付近

1970年
 バンク・オブ・アメリカ

1920年代に建てられた旧台湾銀行横浜支店の建物に、1950年にバンク・オブ・アメリカ(アメリカ銀行)横浜支店が移転してきた。

1970年に神奈川県住宅供給公社に売却、1973年、同公社ビルに建て替わった

横浜市中区日本大通33

1969年
 エッソビル

1928年、紐育(ニューヨーク)スタンダード石油会社(ソコニー)横浜支店として完成。同社は明治期から同じ場所に日本支社を設けていたが、1923年の関東大震災で被災、社員は神戸に移った。この新社屋完成で社員が横浜に戻り、「淋しかった外人街も漸く復興の賑わいを呈すであらう」(横浜貿易新報1928年7月8日付)と当時の紙面。

戦後は一時期、連合国軍に接収されたが、1951年に解除。会社合併でスタンダード・バキューム(スタンバック)の名でも知られたが、1961年にモービル石油とエッソ・スタンダード石油に分社され、エッソの社屋に。赤馬印に代わり、Essoの赤いネオンが港の夜を彩った。戦後、国際企業の多くが日本での拠点を東京に移す中で横浜に残り、地方財政にも貢献した。1972年頃に解体された

横浜市中区山下町8付近

1971年
 香港上海銀行

J.H.モーガンの設計で1934年に完成、産業貿易センターの建設に伴い1973年頃解体。

同行は1866年に日本で初めての銀行を横浜に開設。現在、同センター敷地に「銀行業務発祥の地」の碑が立つ

横浜市中区山下町2付近

1958年
 神奈川県立武道館

1936年に神奈川県費と関係団体からの寄付で武徳館として完成した。

戦後接収され将校や軍属のクラブとなり1958年に返還。横浜スタジアム建設に伴い1977年に解体され、仮設の武道館がスタジアム近くにできた。1982年、岸根公園に新しい武道館がオープンした

横浜市中区横浜公園

1956年
 横浜チャペルセンター

1947年頃、占領軍が建設した教会。

ミサや葬儀、復活祭などが行われ、後年、日本人にも公開された。横浜スタジアム建設に伴い1978年に解体、現在、跡地は彼我庭園になっている

横浜市中区横浜公園